Wednesday, June 6, 2007

Development Pornography

久々のBlog。いろいろ書きたいことはあったが、 いつの間にか1ヶ月以上も更新せずに放置していた。5月病も終わったことだし(?)そろそろ再開。

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開発、特にGlobal Healthの分野に関わるようになって数年。
とても奥が深いこの分野はまだまだ学びの途上だが、最近になって、少しずつ冷静に批判的視点を持ちながら現場や文献に接することができるようになってきた。

国際開発は、どの分野であっても常に超えるべき大きな障壁が立ちはだかり、その問題解決に集中するあまり、中立的・批判的な視点を失ってしまうことがよくある。
Donorにとっての中立的・批判的な視点とは、「Donorの視点」以外の視点、すなわち「外部からの視点」や「当事者(Recipient)の視点」である。
批判的視点を失うと、自らが良心の元にとった行動が結果的に相手に害を与えていたとしても、それに気づくことはできない。

「開発ポルノ」というテーマは、まさにその最たる例かもしれない。

Fair Trade Photography Battles 'Development Pornography'
Technology, Health & Development Blogより。

"Development Pornography" 「開発ポルノ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
まずはこの映像をみてほしい。



センチメンタルな音楽にあわせ、栄養失調で痩せ細った子どもたちの姿、劣悪な生活を余儀なくされる人々の姿が映し出され、Darfurの悲惨な状況が伝わってくる。まさに「貧困」そのものである。
この映像をみて、私たちは何を感じるだろうか。
「かわいそうだなぁ。」、「何かできることがあればしてあげたい。」、「同じ世界なのにどうしてこんなに差があるのだろう。」、「平和な国に生まれてよかった。」、「遠い国の話で私には関係がない。」等々・・・人によって捉え方はさまざまだろう。

しかし、気づかなければならないのは、こうした視点はあくまで「Donorの視点」、「外部の視点」にすぎないということだ。
こうした映像・写真表現に当事者の視点が入る余地がないのだ。当事者のDarfurの人々は、この映像を見てどういった感想を持つだろうか。「白人の裸を写せばポルノなのに、アフリカ人の裸を写せばチャリティーであり、称えられるのか。」 [参考] と疑問を呈するかもしれない。あるいは「私たちにも日常があり、誇りがある。哀れみの目で見ないでほしい。」と思うかもしれない。

“Upwards of 90% of the images of the majority world that are seen in the western media are produced by white photographers from the USA or Europe. This results in a one dimensional view often driven by a negative news agenda or the need to raise money.”
「西欧諸国のメディアでみられる途上国世界の写真の90%以上は、アメリカやヨーロッパの白人の写真家によって撮影されたものだ。こうした映像・写真表現は、(途上国世界に対する)一元的な視点を生み出しており、そうした視点はしばしば、ネガティブなニュースの議題や(援助機関の)資金調達の必要性から引き出される。」

“Recognizing everybody’s communication rights in the information society is not mere slogan or campaign; it’s an integral part of social justice.”
「情報社会における各人のコミュニケーションの権利を認識することは、単なるスローガンやキャンペーンではなく、社会正義の統合的な一要素である。」
[quotes from kijiji.com]
私は、こうした映像・写真表現を否定する気は毛頭ない。ただ、それを「当たり前」として容認する姿勢をとってならないと思うだけだ。

こうした映像は、確かにインパクトがあり、人々に「気づき」の機会を与える上で大きな役割を担っており、人々の良心-時にはそれ以外の場合もあるが-から寄せられる寄付はNPOや国際機関等の意義ある活動を支える大きな原動力となっている。そして、世界においてNPO(NGO)の存在感を強めることにも大きな貢献をしてきた。こうして得た資金により多くの人々が救われているのは事実だ。

しかし、一方で被写体となった彼らには彼らの生活があり、日常がある。そして誇りがある。「アフリカ=貧困・エイズ」といった偏ったステレオタイプを植えつけられる彼らの尊厳、人権をどう考えるのか。
人権を守るのための報道活動が、一元的なステレオタイプの助長、そして彼らの尊厳の蹂躙につながってはいないのか、今一度よく考える必要がある。

近年になって、こうした問題における当事者(国際NGOなど)の一部では、この問題に気づき、真剣に議論し始めている。

"Part of the reason for this kind of post-colonial choreography by INGOs is because they are still required to be the visual mediators of the poor world to the rich world. In Western society, our INGOs are inter-cultural gatekeepers. They know both worlds and report the one to the other. This presents them with many representational dilemmas with their own publics and their own civil societies 'back home'."
「国際NGOによる、こういったポストコロニアル
choreography*の理由の一つは、彼らが先進国に途上国の姿を映し出す媒体としていまだ必要とされているためだ。西欧社会では、国際NGOは異文化の門番となっている。彼らは両方の世界を知り、途上国から先進国へレポートするからだ。こうした役割のため、彼らは、彼らの拠点(先進国)のpublic**やcivil society***との間に多くの表現上のジレンマを持つことになるのだ。」
*) choreography: 振り付け、つまり(一元的な)「貧困」のイメージを構成すること
**) public: 公衆、一般の人々、ここでは途上国に対する固定化した観念を持つ人々のこと
***) civil society: 市民社会、ここでは国際NGOへの見識があり、途上国を知る人々のこと

つまり、国際NGOなど、途上国につながりを持つ組織は、先進国の一般の人々=publicにとって、途上国を映し出す鏡としての存在を期待されており、publicは国際NGOの活動を通して「途上国」を知ることになる。一方、国際NGOは、自らの役割(貧困撲滅)を果たすためには、publicが「貧困」の現状を知ることが必要であり、自らの活動への理解者、支援者となってほしいと望む。つまり必然的に国際NGOは、途上国の「貧困」の側面を強調することになる。こうして「途上国=貧困」あるいは、「途上国=エイズ」像ができあがる。
一方で、途上国を知る市民の輪=civil societyからみると、こうした国際NGOによるプロパガンダは、一面的でしかないように映るかもしれない。

しかし、こうした問題が認識されはじめたのは最近のことであり、DonorやJournalistの中でもまだまだ認識に差があるのが現状だ。

私たちは油断をするとすぐ一元的な視点に陥ってしまい、抜け出せなくなる。
一元的な視点は、影響がないばかりか、時に害すら及ぼすことがある。
先のL. Garrett氏の論文は、まさにそれを指摘した典型例だろう。)

私たちが今行っていることがどういった影響を与えうるのか、広い視点で検討ができるよう、常に広く世界にアンテナを広げている必要があるだろう。


次回は、少し違った視点から、「格差」をテーマに先入観と現実社会のズレについて考えてみようと思う。

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